フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社、2016)

フアン・ガブリエル・バスケスのことは、先日、立命館大学でおこなわれた研究会のあとの懇親会で、話題にのぼったばかりだった。研究会メンバーである久野量一さんが、バスケスの『コスタグアナ秘史』という、コンラッドの『ノストローモ』を題材の一つにした小説を訳したということで、その小説が、水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズの一冊として、近々発売されるという話だった。

そんな矢先、バスケスの『物が落ちる音』(柳原孝敦訳、松籟社)が届いた。手元には『コスタグアナ秘史』もある。ちょうど仕事も一段落したところでもあったので、さっそく読むことにした。ちょっとした気分で、『物が落ちる音』から読むことになった。

小説は、一人称の語り手兼書き手によって物語れていく。語り手は、コロンビアの首都ボゴタに住む、大学法学部に勤務する教員で、小説の現在の時点で、年のころは40歳。その時点から、1995年から1996年にかけて起こった個人的な出来事を語るというものだ。1995年、語り手は、中年の男性リカルドに出会う。その人物と交流をもち始めた矢先、彼は殺されてしまう。しかも、語り手は、このリカルドの死の現場に居合わせ、不運なことに、彼を狙った銃弾の流れ弾に当たって、重傷を負ってしまう。リカルドとは何者だったのか。なぜ殺されたのか。小説は、この謎の解明に向かって、リカルドの人生を再構成していく。

端的に、ストーリーが面白く、読者を引き込んでいく内容だ。何より、描写が素晴らしい。たとえば、街でも、家でも、とても上手に描かれていて、映像が頭のなかに浮かぶだけでなく、ときには、いろいろなにおいまでも漂ってくる。バスケスという書き手の力量を感じるところだ(訳については感嘆するところが多く、こっそり見習いたい)。

抽象的なテーマも、何層にも重ねられており、文学を読むときの醍醐味を感じる。見えやすいテーマは、なんといっても、物語るという行為をめぐる内省だろう。書き手は、「すべては思い出なのだ」と書く。これが、バスケスの物語観の核にあるのだと直観した。すなわち、語るという行為を通じて、語られることはすべて「過ぎ去った」ことであり、その意味で、現在とは絶えず過去になりつつあるものであるという考えだ。そして、この考えは、私たちが日々おこなっている発話が、過去に属しているという発想をもたらす。

この小説では、語り手が「あのときに、ああすればよかった」と後悔するくだりが繰り返される。つまり、そのとき(=現在)は、ことの重大さが認識できなかったために、取り返しのつかない出来事に巻き込まれてしまうのである。その悔恨を通じて、過去は、かえって、揺るがしえない事実として立ち現れてくる。

「物が落ちる音」というタイトルは、この作品のなかで効果的に使われるさまざまな落下のイメージと結びつく。そこで、これを物語る行為=想起というテーマと結びつけて、私はこう解釈してみよう。「物」とは「現在」の喩であり、私たちが「物」を認識するのは、つねにそれが落下したあと、つまり「事後」でしかないのだ、と。しかし、翻って、書き手とは、その物が落ち行く瞬間をも捉えようと試みるものである、という著者のメッセージがこのタイトルには秘められているようにも(深読みかもしれないが)思える。

いずれにしても、読んだあと、その感想をどこかに書きとめておきたいと思わせる、素晴らしい作品だ。










コメント